【まじめな話】
 児ポ法に続いてこれでもかというほどエリート主導な身勝手さで日本の教育を変えようという動きが起こっています。
 わいせつ表現は全部だめとかPTAの頭の悪さを端的に象徴する、(実際規制しようとする人間の主張は中学生くらいに見えました)阿呆の極地とも言える規制も話が進んでいるんだかいないんだか。

 それはそれとして、今回の教育法改正についての日弁連の意見書PDFが以下。そこに書かれていることを自分なりに解釈したうえで以降続きます。
http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/sytyou/iken/02/2002_24.html

 要約すると、改正は「愛国心を育てる」「公共のために奉仕する」「伝統や文化の尊重」が大きな柱だという。
 ほかにも教育の現場では2学期制にすることで「ゆとり教育」がもたらしてしまった学力低下をごまかそうと「ゆとり教育のうえで学習時間を増やす」という本末転倒な策もあるという。さておき。

 国が心を教育した例として何があるか?もちろん戦前の日本であり現在のアメリカ的教育であり現在の北朝鮮である、と極端な性質だけを抜き出してみればこれらがイコールで結ばれるところがある。(持論)
 すなわち「国」という意識、「国民」という意識を植え付ける(表現は悪いが)ことで国の政策を進めやすくすることだ。
 もちろん戦前日本および北朝鮮の軍国主義とアメリカの唱える国家主義はまったく異なるものだ。が、「わたしは日本国国民です」と365日唱えるような「教育」が何をもたらすのだろうか?

 公共心を育てることについて、謳う内容は確かに立派だが、それを実際にどう教えるつもりなのか? 「あなたは社会の一員なのだから社会のために働きなさい」とでも言うつもりだろうか? はたまた地域の清掃活動を強制させるのだろうか?
 もちろん、労働の義務は日本国民に等しくあるわけだが、労働意欲の減退を教育面から「国のために働け」と刷り込むことで解決しようという安直かつもっとも最悪な形で上の人間は実行しようとしているのではないだろうか。
 もちろん労働を否定する考え方ではないことは明言させておいてもらうが、「それをしたり顔で教 育 と 謳 う か」とは言いたい。
 教育はマインドコントロールではない。個人の幸福追求の手段であり国家のために役に立つ道具を作るための手段ではないはずだ。
 すべてを否定するつもりはないがこれらを鵜呑みに「ハイソノトオリデス」と言う事が危険すぎることを、学校教育でない教育から個人が知りえた知識知恵として警鐘を鳴らす。

 日本の文化伝統、が神社神道に結びつきやすいのは自明の理で、下手をすればただでさえ象徴のはずの天皇がさらに宗教的権威をもってしまう危惧はもっともである。
 日本独自の宗教観というものは基本的には自然への畏敬・尊重から生まれるものであったはずで、西方渡来の仏教およびその派生とはまた違う。むしろ天皇制が日本を作った神の子孫、という根拠は無さそうな(こんなことを言うと信仰している人には激怒されそうだが)理由から日本を治める者として君臨してきた経緯もあり、「宗教的情操をはぐくむ」を教育にとりいれることの危険性を知っててそれを推進しているのだろうか?

 家庭教育について。
 中教審での意見として「家庭」と「学習」を切り離すべきだ、とか、基本的なしつけをしてから学校に送り出せ(私解釈)、とかこうしつけろと親に家庭教育手帳を通じて書け(私解釈)とかもうエリート様の考えまるだしで目から汁があふれるほど。
 たしかに親でない親が近年では増え、それにより子どもの非行化も悪化の一途をたどる悪循環の例も存在はするが、「教育改革」とは「人格改革」ではないはずであり、前述のマインドコントロール、もしくは国の理想とする人材養成にしかならないのではないだろうか。
 親、子どもの事情はそれぞれ異なってしかも根が深いもので、字数の都合ではしょるが個々の場合を考えて社会で対応すべきであり上から口を出すものではない。
 先天的後天的はともかく、その個人の能力差を「家庭」「学習の場」で切り分けたときにどんな悲劇が待っているか、あまり創造はしたくないものである。もっとも、ただでさえ部落差別をはじめ在日中国韓国人への社会的な差別は歴然としてそこにある現代社会で、それを補助・保障する社会の基盤というものの薄さは、推して計るべし、である。
 それをさしおいて、すべて「現代の若者がダメになったのはいままでの教育法が悪かったからだ」と教育法の「不備」をことさらに挙げ、都合の良い制度に変えることだけを考えてはいまいか。
 また、「良い教育」ではなく「良い学校」「良い先生」が取り上げられるのはなぜか。それは本来の教育のあり方を真剣に考え、教育に真っ向から立ち向かう個人が成し得た業績であり、しかし、それが「教育委員会」の意に添わぬ個の育成だと、「彼ら」は決して自らの非を認めようとはせず、過去の制度など「存在しないもの」に責任をなすりつけているだけにしか見えない。いやむしろ確信犯的な「教育的正義」をふりかざし、日本国民であることを強制させ、公共心を持つことを強制させようとしているように思えてならない。

 余談ながら、現場の声がコラムになっているページを紹介。
http://www.ne.jp/asahi/uzomuzo/home/cha_top.html

 諸氏らにとっての「教育」とはどこにあったのか、問い掛けてみたいと思う。

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